生没:敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)〜推古天皇30年2月22日(622年4月8日)
飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行ない、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化、制度をとりいれて天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
近年の歴史学研究においては、日本書紀等の聖徳太子像を虚構とする説を唱える研究者もいる。
墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。
【祀られている神社】(以下は祭神名として記載のある神社です。総称がある場合はそちらも参考にしてください)
知立神社