祭神 |
火牟須比命 (主祭) 伊弉諾神 (主祭) 伊弉冉神 (主祭) |
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延喜式社格 | - |
旧社格 | 国幣小社 |
一の宮・総社など | - |
別表・単立 | 別表神社 |
系統 | 伊豆山神社、走湯神社総本社 |
由緒・説明 | ≪公式HP由緒より≫ 当社は古来伊豆大権現、又は走湯大権現、伊豆御宮とも走湯社とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていましたが、明治になって現在の社名に改称されました。 御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残されておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝えられております。 社伝によると当社は当初は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三遷して現在地に御鎮座になりました。一六代仁徳天皇が勅願所となされてより、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、殊に後奈良天皇は御宸筆の心経一巻(昭和二年国宝指定、現重文)を御奉納になられ、国土安穏と万民の和楽を御祈願になられております。大正三年一月十三日、皇太子であられた昭和天皇後参拝の砌り、親しく若松一株御手植を賜わりました。今、社頭左側に亭々と聳えております。 大正七年に宮内省から基本財産の一部にと、金参万円の御下賜をいただき、又、昭和三年秩父宮家をはじめ、高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の御寄進をいただき、又、昭和五十五年九月十二日に皇太子浩宮徳仁親王殿下の御参拝をいただいております。 平冶の乱後、平家の手により伊豆国に配流の身となっていた、源頼朝が源家再興のことを当社に祈願し、後鎌倉に幕府を開くに及んで、 驚く当社を崇敬し、箱根とともに二所と称えて、幕府最高の崇敬社として関八州鎮護とされ、社領四里四方、海上見渡す限りの外に、鎌倉、室町期を通じて、 一、武州 吉田三ヶ村 野中村 一、相州 柳下郷 小田原寺家方金目庄 一、上州 渕名庄半分 一、豆州 丹那郷 田代郷 大田家村 春木村 蛭島郷 白浜郷 初島領家職 熱海松輪村東湯屋 山木郷 山上郷 平井薬師堂 馬宮庄領家職 仁科庄内田鼻 松下田鼻 一、駿州 富士村寺 聖一色 伊賀留美 一、越州 国分寺 上の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文章「寺領知行地注文」に記されておりますが、 その所領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。 かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先立ち、二百石を寄進し次で慶長なって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して 崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。 昭和三年昭和天皇御大典に際して、国幣小社に列格仰出され、官社として御神威いよいよ高くいましたが、終戦後神社制度も廃されて宗教法人として新に発足し、今日に至っております。 猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、 修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る粱塵秘抄に「四方の霊験者は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸穏、駿河の富士山、 伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞こえていたことがしられます。 |
ご利益 | |
朱印有無 | 朱印有 |
朱印帳有無 | |
最寄駅 | |
アクセス | |
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